なんどだって考察するよ。
ブログでさえ、やっぱりどこか不健全な気がしている。わたし自身、続けていながら、どうして、web上に気持ちや日常を書き付ける必要があるのか。どうして、誰かに見てもらう必要があるのか。いつも、きもちわるいと思う自分と共存していた。有名人だったり、書くことや描くことが仕事だったり、それを夢や目標としている人には意味のあるツールだと思うのだけど、それ以外の、多くの人たちは一体なんのために日常を書き綴るの。その明確な答えはまだわからないけれど、わたしにはなんとなく、アイデンティティ的なものや自己顕示欲、誰かと繋がりたいとか思いを吐き出したいとか、どちらかというと、不健康な気持ちのような気がしている。だからわたしは友だちにはブログを書いていることはほとんど言っていないし、言うことがあってもページは教えない。だいたい、よく考えれば、わたしの親しくしている友だちは誰もブログなんてやってない。彼女たちがほんとうのことを言ってないだけかもしれないけれど、でもネットさえほとんどしない彼女たちだから、たぶんほんとうなんだと思う。ミクシもはじめはすごいシステムと思っていたけど、どんどん違和感を感じてしまうようになった。ツイッタははじめる気すらおきなかった。(メールがあるのにどうして@で会話したり、今いる場所や行動そして気持ちを誰かにしらせる必要があるのかわからない。)あわせて読みたい、とかもそう。なにか、違和感がある。不健康なきもちを不健康だとおもわずにいること。それとも、彼女たちにはもっとなにか明確な理由があるのかな。わたしの知り得ない答えや感情が。
ここまで書いていて思い出したのだけれど、以前、好きな文章を書いている女性がいて、夢中になって読んでいた。その人はもう、web上ではなにも書いてはいなくて、個人的にメールしたときに、「もう書く必要がなくなった。今の職場には話せる相手がいるから。」と言っていたのだけれど、こういうのはとても、健全であると思う。それから、カリスマ的な文章を書いていた女の子がwebから忽然といなくなったことがあって、それも、わたしには健全に見えた。真実はしらないままだけど、webに生きていた彼女が、そんなものよりずっと魅力的な現実に出会ったのではないかと思ったから。だから何も書き付ける必要がなくなったんじゃないか、そう思わずにはいられなかった。